【書評】『古代日中関係史』河上麻由子

書評『古代日中関係史』河上麻由子 書評

これからご紹介する本は、倭の五王が中国へ使いを送った5世紀から、日本の巡礼僧や中国の国際商人(海商)による民間交流が活発になる10世紀までの、日本と中国の交流の歴史について書かれています。

筆者の河上麻由子氏は、古代の対外交流史の研究者で、主に仏教を切り口にした論証に定評があります。
特に、河上氏ならではの視点が色濃く現れた「第2回遣隋使」の叙述は、本書のハイライトです。

古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで (中公新書 2533)

本書は、「アジアの視点」から見た古代史がコンパクトにまとまっています。

この記事では、私が本書のハイライトと考える「第2回遣隋使」の叙述を中心に、河上氏の視点を探っていきたいと思います。

倭の五王による朝貢

倭の五王は中国皇帝の臣下の関係にあった

最初に河上氏の切れ味を発揮したのは、倭の五王による朝貢の叙述です。
これは、河上氏が第2回遣隋使を叙述するための「前置き」として重要なところとなります。

倭の五王とは、『宋書』倭国伝に登場する五人の倭の国王です。
それぞれの名称に関しては、讚は仁徳か履中、珍は反正、済は允恭、興は安康、武は雄略天皇とするのが主流です。

倭の五王は、421年〜479年の中国南北朝時代の南朝(宋・斉・梁・陳)へ貢物とともに使節を派遣します。そして、珍の代には、中国皇帝から倭国王として任命を受けます。

使節を派遣した目的は、当時の倭国王の権力基盤は盤石ではなかったため、中国皇帝の権威を背景に、国内の求心力を高め、朝鮮半島南部の支配権獲得にあったといわれております。
そして、倭国の王権支配は、雄略天皇の代に最盛期を迎えます。

ここでのポイントは、倭の五王は中国皇帝に対して臣下の関係にあったということです。
すなわち、5世紀の倭は「冊封」を受けていたということになります。

倭国の「天下観」とは?

この本で重要なもう1つの「前置き」になる倭国の「天下観」形成については、次のように述べております。

倭国から南朝への使節派遣は、雄略天皇を最後に、600年の遣隋使派遣までしばらく途絶えることになります。

通説では、5世紀の東アジア世界において、中国、高句麗、倭の「天下観」(帝国的な世界観)がそれぞれ形成された時期とされております。

倭国が宋への朝貢を停止して、冊封体制から離脱したのは、天下観の発達によるものだとしています。

その論拠に用いられているのが、ワカタケル大王(雄略天皇)の名前が刻まれた鉄剣と太刀です。
1つめは、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣で、金象嵌の銘文があります。
2つめは、熊本県江田船山古墳から出土した太刀で、こちらは銀象嵌の銘文があります。

(ちなみに、金象嵌銘文の鉄剣は埼玉県立さきたま史跡の博物館で、銀象嵌銘文の太刀は東京国立博物館の常設展でみることができます。)

しかし河上氏は、この時期に倭国が「独自の天下観」を持ち始めたとする通説について、別の考え方を示します。

まず「天下」という表現について、研究者の間で2つの見解があることを指摘しています。

  • 広義的な解釈:民族・地域を超えた世界秩序や世界観
  • 狭義的な解釈:実効支配地域

河上氏は、中国の史料を分析した渡辺信一郎氏の先行研究から、「天下」は「狭義的な解釈」の立場をとっています。

そして、さきほどの金象嵌の銘文と銀象嵌の銘文に刻まれている「天下」については、このような見解を示します。

河上氏は、単純な漢文の作成ができない倭国の支配者層が、独自の天下観を持つまで成熟していなかったと推測しています。

このため、倭国が中国への使節派遣を停止した原因は、雄略天皇の後継者である継体天皇統治下の国内情勢の不安定化(527年の磐井の乱など)によるものとしています。

仏教は古代アジア世界の「外交儀礼」として必須だった

次に河上氏は、古代アジア世界の「外交儀礼」における仏教の存在感を指摘します。

中国では次第に仏教の影響力が強くなり、5世紀中頃を過ぎると仏教の戒(菩薩戒)を受ける皇帝が出現します。
特に梁朝(南北朝時代)の武帝は、敬虔な仏教信者として知られています。
晩年の武帝があまりに仏教に傾倒したことが、国家財政疲弊の原因になったといわれております。

中華帝国の君主が菩薩となることは、仏教と権力が密接に関わることを意味し、周辺諸国にも影響を与えます。

中国王権と仏教の結びつきは、周辺諸国が中国との外交関係を構築するために、仏教が「外交ツール」として必要に迫られた背景にあるとしております。

このように河上氏は、仏教が中華帝国と周辺諸国の外交関係の共通言語となり、古代アジア世界の外交儀礼(プロトコル)に必要な要素の1つと考えています。

第2回遣隋使で倭国は対等関係を主張したのか?

倭が朝貢を中断していた間に、中国に統一国家の随が誕生し、朝鮮半島の緊張が高まっていました。
そのような環境下に、第1回遣唐使が派遣されます。

日本側の記録には、派遣の記録が残っていませんが、この時に「外交儀礼」の変更を知ったものと思われます。

第2回遣隋使では、倭が随との対等を主張したのが通説とされております。
通説の根拠は次のとおりです。

  • 倭国で醸成された天下観がその背景にあった。
  • 朝鮮半島諸国と同格に扱われることを避けたかった。

しかし河上氏は、この通説についても、別の考え方を示します。

「天子」は仏教用語として解釈する

河上氏は、中国側の史料である『隋書』を仏教的な文脈で読み解くと別の見方ができることを主張します。

問題となる「天子」を「中華思想」による解釈をした場合、皇帝は唯一無二の存在なので、到底受け入れられない文言になります。

しかし、「天子」を「菩薩天子」と解釈すれば、仏教用語として用いたという解釈が成立すると推測しています。

「日没処」は西の方角を意味する

また、「日出処」と「日没処」については、東野治之氏の先行研究を支持し、あくまでも東西の方角を意味するものであるという立場をとっています。

また河上氏は、国内外の政治的状況にも言及しています。

まず国外においては、7世紀頃から、隋は周辺国に冊封を要求していないことを示しています。

さらに煬帝の代の史料には、朝鮮半島諸国に対する冊封の記録がないことも示しています。
よって倭国に対しても、冊封が要求される状況になかったとしています。

国内においても、倭王権の基盤が強化されたので、支配の正統性を中国皇帝に求める必要がなくなっていたため、倭国側も冊封を求める動機がなかったとしています。

このように河上氏は、国内外どちらの観点から見ても、日中両国ともに冊封が必要な環境ではなかったと結論づけております。

遣唐使は「朝貢使節」だったのか?

国号を「日本」へ変更した理由は、唐に対する対等または優越を示すためというのが通説とされております。

しかし河上氏は、この通説についても、別の考え方を示します。

倭から日本への国号変更に中国皇帝の承認を求めた

東野治之氏の先行研究にて、中国側の史料で使用された「日本」という語が、百済を指していることから、「日本」はあくまでも「中国から見た極東」を指すものであることを明らかにしています。

ゆえに河上氏は、「日本」という語を国号に使うということは、当時の日本の支配者が、唐が持つ「中華帝国を頂点・中心とする世界観」を受け入れたものと解釈できるとしています。

また、国号変更が則天武后(当時の唐の皇帝)に承認されたものであることも指摘しております。

このように河上氏は、東野治之氏の先行研究を支持したうえで、次のような見解を示します。

自国の国号変更なのにも関わらず、他国(唐)のお伺いを立てて、皇帝の承認を得るという手続きを踏むこと自体が、対等な関係とはいえず、日本が朝貢国だったことを物語る事例の1つと考えています。

遣唐使派遣は、新天皇にとっての一大イベント

河上氏は、さらに遣唐使の位置づけについてもメスを入れます。

東野治之氏や山尾幸久氏らの先行研究を検討した上で、

  • 遣唐使の使者が任命されるタイミングが、新天皇の即位直後、あるいは皇位継承者が決まった直後のことが多いこと。
  • 各天皇の治世で一回ずつ派遣される傾向が強いこと

を指摘します。

このように河上氏は、遣唐使の派遣は、新天皇にとっての一大イベントであり、新天皇の使者が唐へ挨拶に行く遣唐使は、朝貢だったことを示す事例の1つと考えています。

その後の日本と中国の関係

その後、菅原道真の提案によって遣唐使派遣が中止されます。
それ以後は、天皇が正式な外交使節を中国皇帝に派遣することはなくなります。

そして日中の正式な外交関係がなくなり、公的な往来はしばらく途絶えます。
しかし、国交が途絶えても、民間人の往来は続きます。

国際商人「海商」の登場とその役割

9世紀頃から、東アジアの海を舞台に活躍する国際商人が出現します。
海商とよばれる国際商人が、宋から中世にかけて活躍することになります。

国内では「唐物」とよばれる中国製の品物の需要の高まり、海商がその役割を担うことになります。

また巡礼僧とよばれる僧は、聖地(五台山や天台山など)を目指して大陸に渡ります。
海商は、巡礼僧を中国へ渡航する手助けとなりました。

なぜ外交関係のない国からの巡礼僧を受け入れたのか?

河上氏は、国交のない国からの巡礼僧を受け入れた理由についてこのように述べています。

唐の滅亡後、五代十国、宋の時代にかけても、仏教が自らの支配の正統性を示すツールであったことを指摘しています。

権力基盤が不安定だった五代十国と宋の皇帝は、(隋や唐が仏教を支援した)前例に従い仏教を支援します。

中国の皇帝は、国内の僧侶のみならず、外国人の優れた僧侶にも紫衣や大師号を与え、自らの権力の正統性と権威を内外に示そうとします。

外交関係のない国からの巡礼僧を追い返さなかったのは、そこに理由がありそうです。

まとめ

尖った内容は一読の価値あり

河上氏はこの本を通じて、冊封の事実関係は、国の「メンツ」と区別して議論する必要があるというメッセージを投げかけています。

そして、アジア世界の頂点であり超大国の中華帝国と、後進国であった日本の関係を丁寧に積み重ね、古代の日本が中国に朝貢したことは歴史的事実だったと主張しています。

古代アジア世界は、絶対的な存在である中国が主体的なプレーヤーであるのに対し、日本や朝鮮半島諸国は、中国の政策や動乱、対外戦略などに「反応」する従属的なプレーヤーだったことが叙述されています。

また、この本を特徴づけるポイントに、国や人々をつなげる政治的ツールとして「仏教」が果たした役割の大きさについて述べられていることがあります。

その一方で、この本で述べられている内容は多くの論争があり、必ずしも同意できない方も少なくないと思います。

それでも、議論を呼ぶ内容であることを承知の上で、仏教を切り口に、学術的な論拠を示して定説に挑戦した本書は、一読の価値があると思います。

なおこちらの記事では、東アジア世界の交流史の原点の1つである「東アジア世界論」に触れた内容を書いております。
よろしければご覧ください。

世界の視点から古代の日本と周辺諸国の外交関係を考えるための手がかり