【歴史】中世から近世の日本と東アジア世界変革の意外な立役者とは?【交流史,グローバリゼーション】

書評

グローバリゼーションとしての日本史

インターネットやLCCの普及は、グローバル化を加速させ、情報から技術、病気に至るまであらゆるものが一瞬のうちに世界中に広がっていく時代になりました。
その一方で、近代の国民国家の枠組みに所属する私達は、民族と地域を一体化し、排他的な国境を当たり前の存在として捉えることがまだ多いと思います。

この記事では、グローバルな視点から見た日本や東アジア世界における、中世から近世までの大まかな流れや気になった出来事などについてまとめております。

今回は、日本中世史や対外交流史の研究を長年に渡って牽引してきた1人である村井章介氏が提唱する「境界」をキーワードに、主に15世紀から17世紀前半までの日本と東アジア世界を見ていきます。

「境界人」とは?

村井氏の定義による「境界人」とは、「国境」を越えて活動する人々を指しております。
例えば、蝦夷や琉球人、朝鮮半島および中国大陸沿岸で略奪や密貿易を行った倭寇、博多と寧波の交易に活躍し、博多の日本人社会にも入り込んでいた海商と呼ばれる中国人の商人などがいます。
彼らの存在や活動を見ていくと、権力者が設定した政治的な境界と民族的、文化的な境界は必ずしも一致しないことがわかります。

15世紀から17世紀初めまでの日本と東アジア世界

安定した15世紀の東アジア世界

15世紀の東アジア世界は、明を中心にした冊封体制の下、厳格な管理貿易体制による安定した国際社会でした。
室町幕府も(前期)倭寇の取締の義務を果たすことで、明との朝貢貿易(勘合貿易)から莫大な利益を得ていました。

しかしその一方で、海禁制度とよばれる海上交通や海外貿易の制限は、民間貿易の妨げになっていました。

16世紀の大変革:後期倭寇とボルトガル人が東アジア海域の主導権を握る

16世紀初頭は、明の海禁政策に反抗し、自由貿易を求めて密貿易を行う集団である後期倭寇が組織・拡大し、公貿易が衰退していく時期です。

寧波の乱(1523)を契機に、明との正式ルートである勘合貿易を独占した大内氏が滅亡後、勘合貿易は断絶します。

その後、九州の諸大名は倭寇とさらに結びつき対外貿易を拡大していきます。

もう1つのポイントは、勘合貿易の断絶によって、日本が再び中国の冊封体制下から(自然消滅する形で)名実ともに離脱した形になったことです。

倭寇と鉄砲と種子島

ポルトガルは、1511年にその強大な軍事力を背景にマラッカを占領。しかし明との外交関係構築は失敗したため、海上での密貿易を展開していきます。

その過程で、後期倭寇がポルトガル人を巻き込みアジア海域の貿易の主導権を握ります。

後期倭寇とポルトガル人のつながりは東アジア海域での変革に大きな役割を果たすことになります。

鉄砲とキリスト教をもたらしたのは倭寇

ついに、後期倭寇が偶然の出会いをもたらすことになります。

後期倭寇の代表的な首領である王直とポルトガル人の乗ったジャンク船は、偶然種子島に漂着します。

鉄砲とキリスト教は倭寇の密貿易ルートから来たもので、ヨーロッパ人が彼ら自身の船で伝えたのではありません。中国人主体の倭寇のジャンク船がヨーロッパ人を運んできました。

このように、ポルトガル人は、倭寇が担っていた東アジア内の密貿易に新勢力として参入します。
その形態は、明や東南アジアの品物と日本の銀と交換する中継貿易です。
ポルトガル人を含む後期倭寇は、途絶えていた明と日本との国家間貿易を補完する役割を果たすことになりました。
また中継貿易で使われた銀は、日本を「銀のクニ」としてヨーロッパ世界に認知させることになります。

琉球王国受難の始まり

16世紀は琉球王国にとって受難の時代の始まりでもあります。
ポルトガルのマラッカ制圧(1511年)で琉球にとって重要な貿易相手国の1つが失われます。
後期倭寇は、琉球の勢力範囲であった東アジアと東南アジアを結ぶ交易ルートを奪っていきます。
このように琉球王国の繁栄に陰りが見えてきたのもこの時期です。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、東アジア世界秩序崩壊の引き金

戦国大名が豊富な資源や技術を求めて貿易を行った結果、富を蓄積し、豊臣秀吉による統一国家建設の原動力にもなりましたが、キリスト教の浸透という難題も抱えることになります。

そのような最中行われた豊臣秀吉の朝鮮出兵は、世界的に見ても16世紀最大の戦争で、かつ東アジア世界秩序崩壊の引き金になりました。
村井氏は、秀吉は清朝の始祖ヌルハチと同様に、明を中心とする東アジア世界秩序に挑戦した1人とみなしております。

朝鮮出兵の副産物として、軍事拠点である肥前名護屋城下を中心とする巨大な物流システムが新たに構築されたことも指摘しております。
このような物流ネットワークの整備が、商業資本のさらなる成長と肥大化を促進し、巨大資本を持つ豪商の誕生にもつながったようです。

朱印船貿易は徳川家康の景気対策?

徳川家康は「朝鮮出兵バブル」崩壊による国家財政破綻を回避するために、国際関係を修復し貿易を復活する必要がありました。
正式な外交ルートでの関係修復には失敗しましたが、商業ベースの関係回復は、朱印船貿易を通じて実現することができました。
朱印船貿易は、商人の新たな収益源となり、その主な担い手は豪商でした。

なぜ家康の朱印状がアジア海域で効力があったのか?

村井氏はその答えは明の海禁政策緩和とポルトガルの財政政策にあるとしております。

明は、1567年に東南アジアに渡って貿易をしたいと願う中国人には税金納入と引き換えに「文引」と呼ばれる渡海許可証を与えていました。

ポルトガルはアジアに進出して沿岸地域は抑えたものの、内陸部に勢力を拡大するほどの力はありませんでした。そこで16世紀以降になると、交易を希望する現地商人に税金と引き換えに「カルタス」という渡海許可証を与えて、新たな収入源としていました。

明とポルトガルで「渡海許可証」がそれぞれ発給されていたために、日本の「渡海許可証」である「朱印状」が国外で受け入れられる素地がありました。

おわりに

鉄砲伝来、キリスト教の浸透、銀の輸出は、近世前半の日本やアジア全体に影響を与えるグローバル化のきっかけとなった重要な出来事です。概要は次の通りまとめることができます。

  • 15世紀前半は明を中心とする冊封体制のもと、日本と朝鮮、琉球の東アジア三国が朝貢国として位置づけられる安定した国際社会だった。
  • 15世紀後半以降、海禁制度は民間貿易の妨げとなり、16世紀に後期倭寇がポルトガル人を巻き込みアジア海域の貿易の主導権を握るようになった。
  • 16世紀の東アジア圏の国際環境変化は、諸大名による南蛮貿易、秀吉による朝鮮出兵、家康による管理貿易という、日本の対外関係、外交や貿易の継続的な枠組みを提供した。

それらは後期倭寇を通じてもたらされたものであるので、後期倭寇は世界の大変革の担い手の一部であったともいえます。

参考文献

今回の記事を書くのに参考にした本や動画はこちらです。

境界をまたぐ人びと (日本史リブレット)
NHKさかのぼり日本史 外交篇[6]
分裂から天下統一へ〈シリーズ日本中世史 4〉 (岩波新書)

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この記事が、皆様のご参考になれば幸いです。

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