建築家としての専門性を土台に法隆寺の謎解きに挑む
法隆寺は現存する世界最古の木造建築物です。
日本で最初に世界遺産に指定された法隆寺は、日本人はもちろん、海外の人も魅了する観光スポットでもあります。
同時に、法隆寺は日本人の美意識の源流を探求し、古代史の権力構造を知るうえでの貴重な手がかりでもあります。
著者の武澤秀一氏は、建築工学が専門でしたが、後年、建築史や美術史にも守備範囲を広げて、古代インドの石窟寺院の博士論文も授与された研究者でもあります。また、東北文化学園大学環境計画工学科の大学教授も務めておりました。
本書では、建築家としての専門知識を土台に、現地のフィールドワークから仏教発祥の地であるインドなどで得た知見、過去の研究史などを駆使して、法隆寺の再建から皇位継承を巡る権力闘争、日本文化の源流までの幅広い角度から、法隆寺の全体像に迫っております。
この本を読むと、日本の美の原点や法隆寺再建の背景などについての興味深い洞察を得ることができます。
この記事では、私自身が特に興味深く感じたところについて記していきます。
現在の法隆寺は「再建」ではなく「新創建」
なぜ「再建」ではなく「新創建」なのか?
武澤氏は、創建時の法隆寺と現存する法隆寺の間に、主な相違点が3つあることに着目しております。
1つめは場所が違うこと、2つめは土地区画の角度が違うこと、3つめは伽藍配置(寺の建物の配置)が変更されていることです。
さらに、傾斜のある土地を土木工事を行ってまで平らに整地していることにも着目しています。。
このような大幅な変更は「再建」ではなく「新設計」であると考え、「新創建」という表現をあえてこの本では使用しているようです。
火災のかなり前から建設計画があったのでは?
考古学的研究成果などから、建築部材は、火災があったと考えられている670年(『日本書紀』の記録)以前に伐採された樹木を使用していることがわかっております。
建築史家の鈴木嘉吉氏は、「火災の前に金堂建築工事が開始、あるいは完成していた」という説を提示しております。
武澤氏は鈴木説を支持し、火災の前に建設計画があった背景について考えていきます。
日本文化の源流としての存在
仏教の日本化
中国や朝鮮半島から伝わった伽藍配置は南北を軸とする縦一列で、初期の有力豪族の氏寺もそのような配置になっています。
その一方で、法隆寺の塔と金堂は、東西でかつ横並びの配置で、さらに非対称な伽藍配置となっております。
しかし、縦型の伽藍配置を採用しなかった最初の建造物は法隆寺ではありません。
最初の建造物は、発掘調査などの考古学的研究成果から、百済大寺と考えられております。
武澤氏は、ここで大胆な推論を私達に提示します。
天皇の百済大寺が豪族の建立した私寺を凌ぐために東西を軸とする横並び配置が考え出され、それが「天皇ブランド」として後の官寺の原型になったというのです。
そして横並び配置の発明の背景については、中国や朝鮮半島は北極星を基準にするので南北軸であるが、山や盆地に囲まれ、日の出と日の入りを意識する日本は東西を意識する土壌があったのではないかと推測しております。
さらに武澤氏は、インドで体験した、仏教の基本作法の1つである寺院の建物を一周するという「めぐる」という行為からも着想を得ているようです。
「めぐる」という行為から、中国や朝鮮半島から伝わった南北軸の伽藍配置は、あくまでも「土着化」したものであるというヒントを得たのかもしれません。
「空白」の発明
日本独自の美的感覚を表現する言葉として、余白や空白というキーワードを耳にすることがあると思います。
空白は、柔らかさや日本らしさを表現するのに欠かせない存在です。
伽藍配置の横並びは、南北軸で固定された建物による威圧感がなくなり、空間が誕生します。そして空間そのものが自然との調和や柔らかさなどを表現することになります。
武澤氏は、「空白の誕生」が日本的な美的感覚が継承されていった原点になったと考えております。
「黒歴史」の隠蔽か?
火災の原因は本当に落雷だったのか?
伽藍配置の変更についての外堀を埋めて、火災前から建設計画があった理由にも迫っていきます。
厩戸皇子(以下、聖徳太子と表記)による7世紀初頭の法隆寺の創建から、「新創建」までの約100年間は、熾烈な権力闘争の時期でもありました。
武澤氏は、「創建法隆寺」の全焼の原因は雷とあるという『日本書紀』の記述に疑いを向けてます。
『日本書紀』の記録に創建法隆寺の火災は669年、670年と短期間に立て続けに発生していることに注目します。
「創建法隆寺」が不審火であり、計画的に放火されたと考えます。
武澤氏は、その理由を次のように推理しております。
- 聖徳太子の死後、法隆寺は崇敬の対象としてその存在感を高め、為政者にとって目障りな存在になりつつあった。
- 推古天皇死後の皇位継承をめぐる対立から、聖徳太子の血を引く山背大兄王とその一族は法隆寺で自死に追い込まれた。この事件は、法隆寺を悲劇のシンボルとし、為政者にとってさらに目障りな存在になった。
- 「太子信仰」を血縁を超えた普遍的な存在にすり替えるために、「天皇ブランド」の横向きの伽藍配置を持つ「新創建法隆寺」を建立した。
- 聖徳太子の血を引く山背大兄王の自死の痕跡が残る「創建法隆寺」を焼き払うことによって、炎とともに過去の「黒歴史」を葬り去った。
このように、私寺の法隆寺を官寺に組み込み、聖徳太子と山背大兄王の存在を抽象化し、普遍的な信仰の対象になるように仕向けたという推理をしております。
まとめ
「黒歴史」を乗り越え「日本の美意識」が伝承されてきた歴史を知る
武澤氏は法隆寺の伽藍配置の変更などを手がかりにして、法隆寺は日本の美のシンボルであり、権力闘争のシンボルでもあったことを解き明かしております。
特に、現存する法隆寺が、日本的な美を表現する「非対称」と「空白」の源流であり、それと同時に、創建法隆寺の放火によって、皇位継承をめぐる「黒歴史」を葬り去り、勝者の権力の正統性の象徴へ転換したという推理は圧巻です。
このように『法隆寺の謎を解く』は、法隆寺の成り立ちの背景や理由を検討するために、筆者の専門の建築をベースに美術史や古代史の研究成果などから、包括的に法隆寺の謎に迫った興味深い内容です。
古代史や法隆寺、聖徳太子に興味のある方に、おすすめできる一冊です。
この記事が、皆様の参考になれば幸いです。