学術的に「出雲側からの視点」の概要を速習するのに最適な1冊
古代出雲の実態は未だ謎に包まれておりますが、近年の考古学上の発見は、出雲を「神話の世界」から「実在の世界」に引き寄せようとしてます。
今回のおすすめの本は、『出雲国風土記と古代遺跡』 です。
著者の勝部 昭氏は、島根県で島根県立博物館館長、島根県文化財保護審議会委員などを歴任された地元出雲の歴史に関する有識者の一人です。
この本では、『出雲国風土記』の記述と出雲地方で発掘された遺跡・遺物を通して、当時の出雲の社会を明らかにしようと試みております。
この本で気になったところをご紹介していきます。
国引き神話はフィクションと言い切れるか?
国引き神話は単にフィクションとはいえない面があるそうです。
その理由として、島根半島が中国山地側と陸続きにつながる平野の形成過程を神話物語として表現したように解釈ができるようです。
出雲地方の地形の変遷
出雲地方の地形の変遷の調査では、現在の宍道湖や神西湖は現在よりもかなり大きかったそうです。
出雲の暴れ川であった斐伊川と神戸川はかつては現在の現在の神西湖に流れ込んでいました。
風土記に書かれている「神門水門」は現在の神西湖の位置にありましたが、当時の周囲は推定約19 kmということです。
日本海交易と大陸との交流
これらの河川や湖は、地域間の交流から北陸、九州、朝鮮半島に至る日本海交易の担い手となり、出雲地方に反映をもたらしました。
『日本書紀』や『続日本紀』には新羅、渤海からの漂着などの記事もあります。
出雲は青銅器のクニ
弥生時代の出雲の特色は青銅器の文化が華やかだったことです。考古学的な大発見が、古代出雲のイメージを変えつつあります。
古代出雲観を変える大発見
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の発掘調査で、出雲が日本最大級の青銅器保有地域であることが判明しました。
- 荒神谷遺跡:358本の銅剣が出土し、全国で初めて銅鐸と銅矛が一緒に埋められているのが発見された。
- 加茂岩倉遺跡:日本最大の39個の銅鐸が発見された。
この発見は古代出雲観を大きく変えて、『記紀』の記述は神話の世界と言い切れないと考えられる契機となりました。
大規模な出雲勢力の存在
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡と同じ鋳型で造られた銅鐸の分布は中国、近畿、北陸の広範囲に渡るため、青銅器を大量入手できた背景には北部九州近畿と交流する大勢力があったと推測されています。
出雲が鉄の物流支配で輝いた時代
出雲が日本海岸地域の広域の連合体の中心であったと推測している理由に、「ヒトデ」のような形状をした四隅突出型墳丘墓の分布にあります。
それは京都府北部を除く山陰、北陸の日本海沿岸に分布し、その代表格が「(出雲の)王家の谷」ともいえる西谷墳墓群でです。
出雲勢力が大きな影響力を持っていた背景として、朝鮮半島から渡来した鉄器製作集団との関わりも推測されています。
山陰地方の鉄器の出土量は、近畿や瀬戸内よりも多く、大陸産の大型の武器が見られる。このため、出雲勢力が当時の戦略物資である鉄の物流を手中に収めていたと考えられています。
それが出雲勢力が広域に影響力を持った要因であったともいえるかもしれません。
弥生時代から出雲大社の地は聖地だった
出雲大社の発掘調査で出土した古墳時代初めの勾玉、臼玉から、4世紀頃には神聖な場所として確立しており、また江戸時代に出土した銅矛と翡翠の勾玉は弥生時代のものと推定されているので、その起源は弥生時代にさかのぼるようです。
出雲大社が記録に登場するのは『日本書紀』の659(斉明5)年と言われております。
白村江の戦いの直前ですので、戦勝祈願と関係あるかもしれません。
中央との関わり
ヤマト勢力の出雲平定には諸説ありますが、『風土記』には欽明天皇在位中に朝廷に仕えたとあります。
6世紀にはヤマト王権との関係が確立しているようです。
出雲国守は出世の登竜門だった?
奈良時代の出雲国守25人の来歴表が興味深いです。
初出は『続日本紀』で、それらの記録によると奈良時代の出雲国守は25人記録に残っており、長屋王の息子で、橘奈良麻呂の変(752年)の密告で知られる山背王、平安時代初めの薬子の変(810年)で知られる藤原仲成 の名前も登場します。
それぞれの任期終了後の経歴を見ると、都で大出世し長寿を全うした者から政権抗争に巻き込まれた者までさまざまの人生があります。
地元出雲から見ると、このような出雲国守出身者との中央政界との太いパイプは役立ったに違いないと思います。
寺院創建は畿内の100年遅れ
出雲の寺院創建は、『風土記』によると畿内地方から約100年遅れの七世紀後半に始まるそうです。
興味深いと感じたのは出土品の瓦が高句麗や新羅の影響を受けた文様であることです。
祭祀で特別扱い
出雲での神官と僧の対立はどうだったかは読み解くことができなかったが、925(延暦5)年『延喜式』に出雲の玉について、毎年朝廷に進上させていたと記録があります。宮中の儀式で特別扱いされていたことがうかがえるそうです。
また玉作は出雲が最後まで残り、11世紀まで続いたそうです。ちなみに現在の「めのう細工」技術は江戸時代末期に若狭の職人から学んだものが伝わっているそうです。
まとめ
「出雲側からの視点」を知る最適な一冊
本書は、考古学的な見地から、出雲が先進地域で日本海を通じた北陸や北九州、大陸との交易や文化の伝搬の変遷が興味深かったです。
すでに知識をお持ちの方には物足りないかもしれませんが、コンパクトで簡潔にまとまっていますので、最初に読む本として最適です。
本書の出版時期は2002年ですが、現在でも荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡は重要な位置づけですので、その内容は現在でも価値が高いと思います。
また律令制度時代下での出雲支配の状況についてもまとまっております。ただし、出雲勢力の意地を見せたともいえる「出雲国造神賀詞」については、より踏み込んだ記述があると更に良かったかと思います。
古代出雲から国家形成過程、律令制度下での出雲地方経営について、学術的に「出雲側からの視点」の概要を速習するのに最適な1冊だと思います。